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2019年 テトのつぶやき

外国から日本に来ている方々と話をするとき、出来るだけ、その言葉の殆どのことを、一度「真に受ける」ようにしています。

学生のときのミャンマー人のバイト友達から始まって、今に至るまで、わりとたくさんの外国籍の方々と友達になったり一緒に仕事したりしてきていますが、冒頭のようにする理由は、最近(とあるミャンマー関連の女性社長さんからのヒントもあり)、私達は相手と自分との「生きてきた(または今生きている)状況」が、思った以上に違うことに、きちんと意識を向ける必要があるのだととても感じるからです。

それは、違うから互いに分からない、のではなくて、そもそも生まれた場所では生活がどれ程守られた環境だったのか、どのような背景で言葉を獲得してきたのか、安全は保証されてきたのか、毎日ご飯が余るほど出てきたのか…、またはどの様な発展をし今何に直面しているのか、それにより個々人はどんな思いをしてきている可能性があるのか…。

その方個人のことでも、国の政治のことでも、歴史のことでもいいのだと思います。ひとつでも多く知って、相手への想像の幅を広げたり深めたりしていくことです。

とくに、上司と部下や、先生と生徒や、お世話する人とされる人、みたいな関係性では、つい「日本はこうなのよ!」と“教え”がちです。そして、何度言っても覚えない、とか、あいつはダメだ、とか、愚痴りがちです。

…でも、自分と相手は異なる環境で生きてきて、日常の言葉すら異なる背景に成り立っているのに、日本の(または私の)感覚でたった2回や3回言ったりしただけで、それでこちらのことを相手が理解して意識や行動が変わるだろうと考えていること自体が、なんだかとっても怠惰だと、最近よく思うのです。

相手が言ってることが何なのか、それは言葉尻のことじゃなくて、どういったベースから発せられ、何を意味しているのか、何が含蓄されているのかです。相手自身の自覚すらない領域です。

もし、外国の方々との関わりを「仕事」にしているのであれば、とくに。

ずっとずっと、自分の相手への想像力を広げ続けていく努力をするべきなのだと、思います。自分の手元のあり物だけを、ただ一方的に教えるだけのことなんて、きっとどんな場面でも、ナシ、なのだと思います。違いは、互いに目の前に置いてみて、一緒に解明していくものなのだと思います。

…これ、日本人同士だって、同じですね(*´∀`)♪


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